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瀧山の「なっとらん受験産業」
…まともな受験教育への提言

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連載コラム 瀧山の「なっとらん受験産業」…まともな受験教育への提言

第22回 “惜別”母を偲んで


“惜別”母を偲んで・・・ここに私のルーツがある。
平成21年9月15日早朝、母、瀧山しきぶが身罷りました。享年100歳でした。明治,大正、昭和,平成と4年代を生きてきました。一言で言うと、凄い母でした、いや人でした。100歳は、歳から言えば大往生です。長い間生きたこと自体大往生ですが、人生の限りを尽くし、関わるすべての人に心いっぱいの愛を分け与えてきたこともまた大事な大往生です。母はそのとおりに生きてきたといえます。100歳まで生きると、田舎では、昔、祝ったそうです。でも、私には寂しいかぎりです。いつの間にか、母でなく、私にとっては、大先輩であり、師匠です。母は、極貧の家に生まれ、体も弱いせいだったか、小学校中退でした。それからは、家の手伝いや、子守のアルバイトをして家の足しにしたのです。子守をすると品質の悪い黒いお米がもらえるのです。当時の子守唄にこんなのがあります。“ ねんねんねん、ねんねしな ねんねした子に 赤いべべ着せる ねんねせん子に 縞のべべ着せる 守を憎いとて 破れ傘着せて かわい我が子に 雨かかる”。 当時の人たちは、子供の頃から、家庭を支えるために、8歳、9歳のころから働いたものでした。

11歳の頃には、姉さんと糸くり工場に臨時工として働きに出ました。朝、5時に起きて、線路づたいに一時間以上歩いていくのです。一日12時間労働、休みは月3回でした。でも母が糸くり工場をやめてどうしても付きたい仕事がありました。それは印刷工でした。理由は簡単明瞭。字を学びたかったからです。もっとたくさん字を覚えて、もっと沢山のことを知りたかったそうです。母の勉強の原点は、世の中のことをもっと“知りたい”ということでした。母は、小さい頃、体が弱かったせいで、小学校もろくに行かず、今で言う“引きこもり”状態で、家事をして毎日を暮らしていた。いったん外に出ると、これも今で言う“いじめに”あったそうです。だから人一倍、字を学びたかったのだろう。買い物に行かされて、店の品書きが読めないんだから。字を覚えるのが必死だった母の気持ちは痛いほど私にはわかります。その当時は、人に馬鹿にされるのが一番悔しかったと後に私に言ったことがあります。私は、よく教師は、劣等感、悔しさ、惨めさ、悲しさ、一人ぼっちを経験した者でないと子供の前には立てないと主張してきた。挫折を経験しないで教師になったらあかん。極論を言えば、何の苦労もしないで、教育大学を付属中学、高校を出て、トコロテン式に卒業した教師に生身の生徒を任せてはいけないのである。学生のジャリ講師をただ一流大学の学生というだけでなんのチェックもせず京都の塾が採用し、ちょっと反抗されると切れ、かっとなって殺した事件は、許されない典型的な例であろう。教師は子供が成長して、親以外に最初に反抗する大人である。反抗は成長の兆しである。学ぶこと、教えることを真剣に考えている教師は何人いるのか、私は、経験上、日本の教師、講師は大半失格であると確信できる。
母の言う、字を覚えたいということは、人間としての知的欲求である。戦争を経験し、6人の子供を身を粉にして、働きながら字を学ぶ姿勢は、私には“先生”である。
83歳の時に、母は一冊の自叙伝を書きました。タイトルは、“和みの歌”である。和み(なごみ)は、平和の和、と出身地和歌山の和を取ってつけた。母はいつも、言ってる言葉は、“皆、和みや”と“人様のために勉強するんやで”である。
小学校中退でも、字を覚えたおかげで詩も俳句も書けるなんてすばらしい、人生に悔いはないよといいながら、逝きました。学ぶことの真理は、明治も、大正も、昭和も、平成もまったく同じであると改めて心に刻みました。「学ぶこと、教えることってなんかな」今私が一番考えてることが母の供養になると間違いなくそんな気がします。
 私の好きな母の詩。
 老いてかがやく わが姿 人には 老いて見ゆるとも 心はいつも 花のまさかり
 今日謝して 明日九十の春を待つ(母にとっては90歳の誕生日はまだ青春であったのです)
 “なんとかせい”教育シリーズ22は、我が師匠母の追悼とさせていただきます。