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連載コラム 「全国の塾長、塾講師に向けてこれだけは言っておきたいこと」
最近、学校再編が目に付く。公立高校が中学を作ったり、大学が小学校を作ったり、果ては大学による経営困難な高校のM&A、まさしく乗っ取りである。これもすべて生徒の確保である。客の取りあいである。大手学校企業による弱者いじめといっても過言ではない。村上ファンド、ライブドアと同じではないか。学校沈没である。教育は教え、育てるが原点である。恐れ多くも、将来の日本を担う子供を作るのに客(生徒)取り合戦にうつつをぬかしている。内容があるのかといいたい。小学校から大学まで一貫教育と聞こえはいいが、学校による生徒の骨抜きである。がんばらなくていいのである。「しんどい、苦しい、悔しい、劣等感、がんばる、自分と戦う」これらの経験は子供を作る宝物である。結果的に学力がつかないのである。今若者に一番欠けているのは、挫折を経験したことがないことである。経験しないで学校を卒業しているのである。教師もそろって生徒をよいしょし、甘やかし、怒ることすらしない。怒るときも「お前のために怒っているのだ」半分逃げ腰、責任転嫁の怒り方だ。社会正義、学校正義、家庭正義の観点に立って「許せないから怒っているのだ」となぜ言えないのだ。昨今、未成年者による犯罪が増えている一因は学校にもある。 親の中にも、苦労しないで小学校から大学までいけることを容認している風潮がある。しかしこれは結果的には子供を安全に育てることにはならないと自信を持って私は言える。『かわいい子には旅をさせろ』 である。昔の格言は本当に的をついている。「ふるきを訪ねてふるきを知る」である。「勝ち組・負け組み」しか考えない新しいことを知る必要はない。 今こそ塾の役割がきた。授業における差別化シリーズ・・・地味に着実に!ちょっと変えれば大きく変わる!手を抜くな! 塾(あえて言うなら私立学校も)は公立学校とは対極にあることを忘れてはならない。多くの塾は学校に振り回されている。学校下請け株式会社である。このような塾は必ずつぶれる運命にある。もともと塾は必要悪、隙間産業、裏産業であると私は思ってきた。だからこそ塾の存在価値があったし、好きだった。 連載1で塾は裏に徹する事だと言ってきた。しかし、今言いたい。上記のような学校再編をしている状況では、もう表に出て堂々と戦うべきだ。必要善になってほしい、大手産業になってほしい、表産業になってほしい。その為には、お上と戦う姿勢がなければならない。学校下請け株式会社塾では戦えないのである。武器は教育内容(教科書)・成績が上がるシステム・教師である。そして生徒に親にどれだけ満足してもらえるかである。一番前に立つ教師は安物では戦えないのである。だから、アナログ的な努力が必要である。前回の「センテンスの簡潔性」から次の地味な差別化シリーズを続けよう。 センテンスの完結性 だらだら何を言っているかわからない長い授業では知識が定着しない。むしろ学ぼうとする生徒には邪魔以外何者でもない。ワンセンテンスの中身が充実していること、重要であることを認識させること、しかも途中に関係のないトークを入れないこと。付加的なこと、例外的な問題、ト書き的なものは、完結した後で別枠で教えることである。とにかく、完結性のない授業は生徒にとってはわかりにくいのである。 簡潔性と完結性のある授業は、わかりやすいし、説得力がある。聞き手の思考力や理解を増す。結果、授業が短く感じるし、眠たくなくなるのである。 ボキャブラリーの貧困さ とにかく最近の教師は語彙力がない。教師だけじゃなくて人の前に立つ商売人にとって語彙力は生命線である。語彙力とはなにか、たくさんべらべらしゃべることではないし、評論家のように立て板に水のようにしゃべることでもない。聞き手が聞いて、ビジュアル的なイメージを連想させるトークである。一口に言って難しいが、訓練することで出来る。語彙力の貧困な人に共通しているのは、修飾語がすくないことだ。擬態語、擬声語、比ゆ的な語を多く使う訓練が必要。表現力を豊かにするにはまねることだ。盗めといいたい。連載5で、同僚の古典の荻野先生は露天商のお兄さんの口上を学んだと紹介しました。もちろん荻野先生は語彙力は私なんか比べ物にならないほど、豊富である。口上のお兄さんから学んだのは、表現力と間である。いかにお客さんを逃がさないかということである。またトークの順序である。結論を先に言うか、後で言うかにプロはこだわるのである。残念ながら、語彙、表現力を豊かにする努力が欠けている人が多すぎる。テレビから、映画から、講演から、小説から学べ、盗め。私はよく、新聞を読んで感動した記事を、小説を読んで講演に役に立つ言葉を、テレビを見て若い人の関心事などをファイルしている。連載3,4で紹介した、「情熱、努力、感性」がない教師は人は人の前に立つ仕事に就くなといいたい。 アイコンタクトの問題 視線を長く投げかけるかどうかである。焦点のない目つきで講演をしている人を見るが、何の感動もない。私は連載5で書いたように、デジタルではアイコンタクトは出しにくい。チラッとではアイコンタクトの効果はない。厳しく、やさしく、情熱的に「じっとみつめる」ことだ。 アイコンタクトが少なすぎると、次のようは現象が出てくる。1.冷たい 2.事務的 3.近づきにくい 4.面白くない 生徒側からいうとこの先生についていこうという気持ちになれない。 たかがアイコンタクトされどアイコンタクトである。表に出て戦うのであるから、すべてに、差別化をはかろうではないか。 感情移入の問題 感情が入りにくい衛星放送よりもアナログの授業が本来の塾だった。生徒や先生が笑ったり、怒ったり、真剣になったりする教室が我が家であった。東京のある大手の大学受験塾のコンセプトは「おかえりなさい」である。時代の流れに逆行するアナログ的で成功している。教育の基本はface to faceである。デジタルは感情が入りにくいのである。簡単に言えば、教壇の上で演じられるかどうかである。素のままで立ってる若い教師が多い。説得力もない、感動もない。『黒板の前に立ってるただの人』 である。 教壇は舞台である。昔、私がまだ新人の公立の教師をしていたころ、まだ授業もうまくなく、今のように研修会もなかった頃は、先輩の授業を見て真似てた。とにかく、生徒のことを考えないで、とにかく一生懸命に、元気に、それこそ感情丸出しでやっていた。後で生徒が「なぜそんなに一生懸命にやるの、僕らをほったらかして」「でもなんか授業はうまくないけど、ええ感じやった」といってくれた。人生の先輩、大人が一生懸命の姿をみて好感を持ってくれたのだと思う。少々間違ってもいい、下手でもいい。彼ら生徒はキチント見ている。感情移入なしに教壇に立つな。昔、代々木で学んだことは、教師は5者になれという言葉だった。 「学者になれ、医者になれ、易者になれ、芸者になれ、役者になれ」(株式会社ルックデータ出版発行「塾ジャーナル」掲載) |
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